あしがらじんじゃ
神奈川県南足柄市苅野274
足柄神社略誌 縁起 伝説としては、日本武尊御東征の砌、足柄村にしばし御滞在なされ仮宮安在所を設け慰労後、尚明神嶽から足柄山を越えなむとするも樹木草生い繁り遂に進路に御迷いの所、白鹿眼前に現れ、..
足柄神社略誌 縁起 伝説としては、日本武尊御東征の砌、足柄村にしばし御滞在なされ仮宮安在所を設け慰労後、尚明神嶽から足柄山を越えなむとするも樹木草生い繁り遂に進路に御迷いの所、白鹿眼前に現れ、其の後に従い足柄峠に難なく進むことが出来、此処に於て白鹿消え給うと、これ神霊の御導きならむと待僕を同所に三年間滞在させ、神霊を齋祀されたと云はれている 。 天望するに南海にひらけし海を逆波と(後の相模)呼称された事や、足柄明神に祈請して、新羅三郎義光が秘曲大食、入調の二曲を伝授され奏した事はあまりにも明晰である。尚此の土地に土着せし瀬戸家の系図には、家相鬼門除の神として崇むと記されてをり(天慶三年)、種々な信仰対照として、崇敬されて来ている。又寛保年間には、水下十三ケ村、旧岡本村和田地区が大洪水に見舞はれし時、幕府及び小田原藩が地元民と協力、気持を直結し明神に再三祈請して難に打勝つ事が出来た事も地誌に見え、かつて巡洋艦「足柄」に霊代を勧請名声をはせた事もあった。現在も諸生産の守護神として郷土一円地方の根強い信仰と崇敬の的となっている。近時、富士写真フィルム会社にも分霊奉斎、生産増進の守護神として創業以来、戦災の外数へる災害なく、一に崇敬厚き対象となっている等、時代の変遷にも一環極みなき郷土との由縁をかちとらえられている事であり、諸祭典と共に諸事の教義も帯び今後の斯界に対処されている。 祭神 瓊々許尊 日本武尊 瓊々許尊は天照大神の孫、日本武尊は、景行天皇の第一皇子に当らせられ、御二方の事蹟は記紀並びに史書で明晰のように日本文化文明史、社会発展の基礎的役割をお示しになった事は違うべきもないことである。 御神体は木造座、丈三尺七寸、束帯像である。(約二百五、六十年前の作) 創立 天慶三年朱雀天皇の御代、明神獄に奉斎され(約千十六年前)しが年次を経るに従ひ足柄峠、矢倉獄に遷座、現鎮座地は、鎌倉時代末期矢倉獄より遷座されたと言はれている。現在も、矢倉沢講・狩講ともに存在し毎年旧蹟跡へ一回かかさず参詣されている。 旧社格 明治六年七月三十日、郷社と定められ、明治四十年四月三十日、神饌幣帛料供進の神社に指定、宗教法人令制定後、宗教法人「足柄神社」として発足。現在に至っている。 社号 臼井豊後守藤原道孝、旧に復し神主として寛延三年正月廿七日、神祗管領から受けた令状によれば苅野岩村大明神とあり其の他の古文書等大明神とあり、明治維新後矢倉神社、昭和十四年以降、足柄神社と改称、今日に至る。
かつては足柄峠にあり矢倉岳山頂に移転。その後鎌倉時代以降現在地に祀られる。現社殿は江戸末期の建築。日本武尊伝説が伝わる。旧日本海軍重巡洋艦「足柄」海上自衛隊イージス艦「あしがら」船内にも 当社が分祀されています。
天照皇大御神・瓊瓊杵尊・日本武尊
郷社
940年(天慶3年)
足柄明神
例祭 3月3日、秋季祭 10月9日