むつくぬぎはちまんぐう
山形県山形市鉄砲町1-3-5
古来「六椹八幡宮」と称し、天平年 中大野東人の創建とも伝えるが、平安時代康 平六年、源頼義、義家前九年の役に際し当地 に至り、里人より「この地に椹の大木六本有 り、故に六椹の里と称し祀れるは八幡大神..
古来「六椹八幡宮」と称し、天平年 中大野東人の創建とも伝えるが、平安時代康 平六年、源頼義、義家前九年の役に際し当地 に至り、里人より「この地に椹の大木六本有 り、故に六椹の里と称し祀れるは八幡大神 也」と聞き、「それ陸奥の苦を抜く」と喜びて 厚く戦勝を祈願。争乱平定後、神恩報謝に社 殿を造営、絹黒地金泥日章旗一族を奉納したと伝える。南北朝時代、延文元年、斯波兼頼山形に入部するや、斯波氏元来源氏の名流なるを以て、 累代の祈願所と定め、社殿を修営、その子孫 最上義光、慶長五年関ヶ原合戦の余波戦に上 杉軍と戦い勝利、愈々崇敬を厚くし、社殿の 修営、軍旗、社殿等を寄進する。最上氏改易 後、寛永七年城主鳥居忠恒宮殿を造営これ今 の本殿と伝え、八双金具に鳥居家紋「巻鶴」 が彫られている。 江戸時代、慶安元年以来御朱印四一八石を 寄せられ、爾来、 保科正之、堀田正亮、秋元 涼朝、水野忠精等歴代藩主厚く崇敬する。 明治六年五月、山形市最初の県社に列し、 同四十年四月十一日神饌幣帛料供進神社に指定される。
昭和六十年一月三十日御社号「六椹八幡神 社」を明治以前の「六八幡宮」復旧改称する。 往古より、山形城下南一円を当八幡宮の氏 子区域として崇敬され、現在氏子戸数六千五 百余戸、四十条町区に及んでいる。 特に市街地の真中にあっても広大なる境内 に樹齢数百年という巨木が数多くそびえ、 神 厳清浄の気に満ちている。
品陀別命 息長帯比賣命 玉依姫命
三級社 旧県社
729年~749年(天平年間)
九月十五日
無料
有り