あわすじんじゃ
埼玉県比企郡嵐山町太郎丸373
太郎丸は『風土記稿』に「古は水房村の内なりしが、寛文五年(一六六五)検地ありしより、別れて枝郷となれり、此検地の時村民太郎丸といへるもの、案内せしよし水帳にしるしたれば、当村は此太郎丸が開墾せし地に..
太郎丸は『風土記稿』に「古は水房村の内なりしが、寛文五年(一六六五)検地ありしより、別れて枝郷となれり、此検地の時村民太郎丸といへるもの、案内せしよし水帳にしるしたれば、当村は此太郎丸が開墾せし地にて、村名とはなれるにや、家数二十余」と見え、江戸初期に分村した際に、開発者の名を村名とした旨を記している。社伝によれば、元禄八年(一六九五)の再建棟札が残されていたというから、このころには一村として安定していたのであろう。 当社は、木村の水房村の鎮守である淡洲明神社を開発の際に分霊して祀ったと考えられる。社地は、現鎮座地の裏手の山中の「御林」と称する所にあった。そこには既に地主神が祀られていたとみられ、それが大化年中(六四五-五〇)に当社が再建されているとする古い伝承を残す由来となったことが推測できる。現社地には、幕末にその山から幣束が飛来して突き立ったので、これを神の御意として村民は心を一つにして社殿を造営したという。明治二年の神主改名願によれば、名主田幡宗順の分家で組頭の田幡文五郎の子息建三郎が神道恭順の出をもって神主を務める旨が記されている。文五郎は造酒業を営み財をなしており、社殿建立に力を注いだ名望家でもあった。なお、それ以前の祀職もこの田幡家の者が務めている。村民から信仰を集めていた山は、関越自動車道が通り今は崩されて残っていない。(「埼玉の神社」より)
寛文5年(1665)の検地により、水房から分村して成立した太郎丸の鎮守として、水房阿和須神社を分霊して創祀したと推定されています。
阿須波神
村社
10月17日