かさはたしらひげじんじゃ
埼玉県川越市笠幡3686
当地は小畦川流域の低地から台地にあり、鎮座地上野は台地部にある。北に高く南に低く川に接する地形は、当地開拓の古さを物語っているようである。 社記によると当社の創立は、霊亀年間に高麗一族武蔵野に居を..
当地は小畦川流域の低地から台地にあり、鎮座地上野は台地部にある。北に高く南に低く川に接する地形は、当地開拓の古さを物語っているようである。 社記によると当社の創立は、霊亀年間に高麗一族武蔵野に居を構えた折、一部の民が笠幡の地に居住し本朝の例に倣って明神を祀る。これが当社であり、永享年中に社殿を再営するとある。 棟札写しに「萬治二年再建造営・別当延命寺豪海」とあり、『風土記稿』に「白髭社 延命寺持、例祭九月二十九日」とある。別当延命寺は、幡霊山と号して天台宗の寺である。 口碑に「万治二年の秋に神体として祀ってあった白鬚大神の尊像が盗難に遭ってしまった。これは社殿の向きが悪いために起こったことであるといわれ、真南向きであった社殿を東南向き(盗難にかける)に変更した」という。 当社は神仏習合時代延命寺所有地にあり、明治六年に社地として届け出たものの延命寺の土地と認定された。しかしこれ以後も当社の周囲一町六段歩を神社使用地として管理してきた。この間、折にふれて境内地は問題となっていたが、昭和五一年正式な裁判により神社境内地は社殿周囲一段歩と決定した。この結果、参道の一部・鳥居・社号標・幟立てが寺の所有地にあることになった。(「埼玉の神社」より)
霊亀年間(715-717)に高麗一族が武蔵野に居を構えた折、一部の民が笠幡の地に居住し本朝の例に倣って白髭神社を祀ったと伝えられます。万治2年(1659)の秋には御神体が盗難に遭ってしまい、社殿の向きが悪いために起こったことであるとい...
猿田彦大神
JR川越線笠幡駅より徒歩5分