ふもんいんかんのんじ
和歌山県橋本市高野口町伏原154
推古朝の頃、この地に紫雲棚引き、その雲間から放たれるまばゆい霊光の村人たちが拝跪している姿を夢でみられた聖徳太子が、自らこの地を訪ねられところ、森の中に光さして、そこの石の上に観音様が応現されたとい..
推古朝の頃、この地に紫雲棚引き、その雲間から放たれるまばゆい霊光の村人たちが拝跪している姿を夢でみられた聖徳太子が、自らこの地を訪ねられところ、森の中に光さして、そこの石の上に観音様が応現されたという。供の者みなその有難さに打たれ伏し拝んだというところから伏原と名付けられた由、そして、観音様の現れ給うた石を影向石といい、今も本堂の前にある二尺ばかりの自然石がそれである。 そして、太子自ら堂宇を開創され、一寸八分の本尊を安置され、法華経の一部を金字で写経されて堂下に埋め国家鎮護の霊城として法華山普門院の名を付けられ境内一町歩を付与されたと伝えられる。 天平年間行基菩薩もまたこの霊域を慕われ、自ら一尺二寸の観音像を刻んで八間四面の堂に安置され、為に仏徳大いに広まったのであるが、足利尊氏ら、二度の兵火の為、堂宇ことごとく焼滅したらしい。幸いご本尊だけ影向石の下に難を免れて今もなお開運厄除け、病気平癒、学問上達の霊験を顕わされ、厄除け伏原観音として尊信されている。毎年3月18日本尊会式で四十二才の男子と有志が経営し、ご利益はあらたかである。
普門院
高野山真言宗
推古朝の頃
厄除十一面観音(行基作)
聖徳太子
ぼけよけ二十四地蔵尊霊場八番札所 紀伊之国十三仏霊場三番札所