とくしょうじ
滋賀県長浜市平方町872
曹洞宗興福山徳勝寺は、元「医王寺」と号して、長浜市下山田(旧湖北町)にあった。開基は応永年間で、通峰真宗和尚の御開山によるが、五世龍山株源和尚の時に至って興隆した。永正15年、浅井亮政がこれを小谷..
曹洞宗興福山徳勝寺は、元「医王寺」と号して、長浜市下山田(旧湖北町)にあった。開基は応永年間で、通峰真宗和尚の御開山によるが、五世龍山株源和尚の時に至って興隆した。永正15年、浅井亮政がこれを小谷城下清水谷に移して、「徳昌寺」と号し、浅井家の菩提寺とした。 浅井氏はもともと湖北地方の豪族で、京極氏の臣であったが、永正3年初代亮政の時代に至って興隆し、永正15年、小谷城築城に着工した。その後数度の戦を経て、その勢力は次第に強大となり、遂にその主京極家の執権となって湖北の治政をその掌中に収めた。 亮政は天文11年正月6日に病死し、2代目久政が家督を相続、ひきつづき京極氏の執権としてその威を揮った。3代長政は永禄3年に家督を継ぎ、6年に織田信長の妹お市の方を娶った。長政は度たびの合戦に湖南、湖西を攻略して、近江一円をその傘下に収めたが元亀元年6月28日、信長と姉川で戦って敗退した。これが有名な「姉川の合戦」である。天正元年8月13日、信長の羽柴秀吉は小谷城を攻めた。長政は敗色を悟り、お市の方とその3人の姫を城より出して敵軍の秀吉に渡し、同年9月1日、前日に自害の父久政に続き、齢29歳で城を枕に自刃し、小谷城は陥落、浅井氏は3代50年余りで遂に滅亡した。 小谷城より脱出した3人の姫たちは後年、長女茶々が秀吉の側室淀殿となり、次女初は京極高次の室となった。また三女小督(江)は徳川2代将軍秀忠の御台所となり、その息女東福門院は後水尾天皇の皇后として明正天皇をお産みになった。 かくして浅井氏は皇室及び豊臣・徳川両家と婚戚の間柄となった。こうした縁故で明正天皇は、その曾祖父にあたる長政に従三位権中納言を追贈せられた。 小谷城落城後天正3年、秀吉が長浜に城府を移した際、当寺も長浜城内に移築され「徳勝寺」と改称、慶長11年、内藤信成が長浜城に封じられた時、一旦、田町(現朝日町)に移したが、寛文12年、井伊直孝により現在の地に移転、享保3年には皇室・幕府及び彦根藩主井伊直惟の助力により現今の本堂を建立した。尚、昭和31年4月1日、悲運の浅井氏3代を偲び、浅井氏ゆかりの人々、住職、檀信徒、それに近隣の方々により浅井家顕彰会が設立された。毎年9月1日には追悼法要、記念講演が行われている。 (徳勝寺 寺略より引用)
興福山
曹洞宗
応永年間(1394~1428年)
釈迦牟尼仏
通峰真宗和尚
龍山株源和尚
びわ湖百八霊場第36番
有り