厳島神社は、弁天町の関根家に伝わる篠葉宮沼弁財天系図よると次のとおりである。
永禄十二年(一五六九)沼から毎夜龍灯が登るのを里人が怪しみ、そこへ行ってみると弁財天の尊像がみつかった。そこで沼のほとりに祠を建てて像を安置することになった。沼の周囲には篠竹が繁茂しており、昔弘法大師が近江の国の湖水の島で天女を拝し法施の時、一夜にして竹が生え、ここを竹生島となづけたことになぞらえ、この地を篠葉村といい、沼を宮沼と唱えるようになった。
慶長十年(一六〇五)には尊像のおつげにより、里人は宮守の一院を建立し、宮沼は拓かれて田園となったと伝えている。
明治元年秋、政府の神仏分離の方針により、祭神を市杵島姫命と定め、厳島神社と改められた。
祭礼は、以前十二年に一回、巳年毎に行っていたが、昭和五十五年から四年に一回行われるようになった。