当社は、往古岡山という山中の日美木と申す地に、祓戸大神を祀りて日美宮・早戸大明神と崇めていた。当時御祭日には、村中軒別稲三把宛を奉納し、それを積み上げた所を稲積といった。現在もその地名が残っている。平安時代の天安元年(八五七)、香椎宮より当地へ分霊を勧請し、当社へ合祀した。島民の多くは日美宮の山下から、便利のよい今の惣津というあたりに移り住むようになった。そのため、当社も現在地に遷し、竈八幡宮と称されるようになった。竈八幡宮の竈の由来は、往古から当地は釜戸関といわれたが、それはこの地が入海で地形が竈に似ていたことから付けられた地名である。当社はこの島の鎮守として竈を冠する社となった。室町時代には、上関城を築いた村上吉敏が参拝し、鼓を奉納する。戦国時代の弘治二年(一五五六)には、上関城山に滞陣中の小早川隆景が参拝の上、手水盥を奉納している。藩政時代となると海運が盛んになり、交通上の要地に鎮座する当社へ対する藩主毛利氏の崇敬も厚く、大島郡八ヶ島の総鎮守として、元文元年(一七三六)に再建立された。この時は藩府御立山から良材が寄進された。また藩主が参勤交代のため上下の折は、武運長久・海上安全の祈祷を申し付けられ、防長二州に祈祷済の御札守を配ることが許されていた。文政二年(一八一九)の再建時も、藩主から良材が寄進された。西国諸藩主からも、瀬戸内海上下の折には、海上安全や日和申しの祈祷を要請されることもしばしばであった。明治二十三年(一八九〇)、当社は火災にて焼失したが、明治二十七年(一八九四)、本殿・幣殿を再建し、明治三十年(一八九七)に拝殿を再建する(旧郷社)。