崇神天皇:開化天皇の第2皇子で19歳で立太子。52歳前後(BC97年)で第10代の天皇に即位する。
即位3年、三輪山西麓の磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)に都を移した。志貴御県坐神社(奈良県桜井市金屋)が伝承地で、御朱印は三輪惠比須神社にて頂ける。
即位5年、疫病が流行し、人口の半ばが失わようとした為、祭祀で疫病を治めようとした天皇は翌年に天照大神と倭大国魂神を宮中の外に出すことにした。天照大神は豊鍬入姫命に託して笠縫邑(現在の檜原神社)に祀らせる(元伊勢巡礼の始まり)。
更に翌年に市磯長尾市(いちしのながおち)を祭主にして大和神社に倭大国魂神を祀った。
この年、大田田根子(おおたたねこ)が大物主神を祭る神主となり三輪山麓に鎮座。三輪山を御神体とする大神神社(三輪大社)の始まりである。
すると疫病は終息して五穀豊穣となったという。
即位9年、天皇の夢のなかに神人が現われて、「赤盾八枚・赤矛八竿(さお)を以て、墨坂神(すみさかのかみ)を祠れ。亦(また)黒盾八枚・黒矛八竿を以て、大坂神(おおさかのかみ)を祠れ」としたお告げを聞きます。さっそく2体の神に盾と矛を奉献(貢物)し祀ったとされ、墨坂神は東の「墨坂神社」に、大坂神は西の「大坂山口神社」へ鎮座します。
この年には孝元天皇の皇子の謀叛を鎮圧。大和政権の影響を広げるために、北陸道、東海道、西道、山陰道へ四道将軍を派遣。
即位48年、活目を立太子(後の垂仁天皇)。
即位62年、灌漑事業を行って農業の便を図る。
即位65年、任那が使者として蘇那曷叱知(そなかしち)を遣わし朝貢。朝鮮半島と初めての関係を持つ。
即位68年、120歳で崩御されたと日本書紀に記されている。