野牛久伊豆神社の創建は不詳であるが、近世以前、野牛村は篠津村や柴山村などとともに「騎西領」に属していたため、その総鎮守である騎西町の玉敷神社(=久伊豆大明神)を勧請 (神を分霊してくること)し、村の鎮守として祀ったものと思われる。 祭神は大己貴命である。また本殿右側には稲荷社など数社が合祀されている。
本殿正面の扁額は、江戸時代の儒学者新井白石(1657~ 1725)が奉納したもので、朝鮮通信使の李礥(イヒョン) が、六代将軍徳川家宣の将軍宣下の式典(1711)に来日した 際、白石のために書したものと伝えられる。
野牛村は宝永六年(1709)に、新井白石の領地となった。 白石は領民の訴えに応じ、低湿だった当地に排水路を掘らせ、一帯を良田にしたという。この排水路は「白石堀」、「殿様堀」 などとよばれ、現在は神社左側の道路歩道下を流れている。
またこの付近に、飢饉に備えて郷倉(貯蔵庫)を建てさせたという。
此のほか当地には白石の堅実で誠意ある領民支配振りを伝える話が残っている。
ー現地案内板による