きょうどうてんそじんじゃ
東京都世田谷区経堂4丁目-33-2
当神社は、江戸幕府の編纂(へんさん)した地誌『新編武蔵国風土記稿(しんぺんむさしのくにふどきこう)』(1830)に、 「伊勢宮 除地一段(じょちいったん) 村ノ西ニアリ ワズカナル祠(ほこら)ナリ ..
当神社は、江戸幕府の編纂(へんさん)した地誌『新編武蔵国風土記稿(しんぺんむさしのくにふどきこう)』(1830)に、 「伊勢宮 除地一段(じょちいったん) 村ノ西ニアリ ワズカナル祠(ほこら)ナリ 当村ノ鎮守タリ 鎮座ノ年代ヲ知ラズ 村内福昌寺持(ふくしょうじもち)」と記されています。 (除地は、年貢免除の土地。一段は、一反。約992平米) 「鎮座ノ年代ヲ知ラズ」となっていますが、土地の古老の間では永正(えいしょう)4年(1507)と言い伝えられています。 永正4年といえば、北条早雲(ほうじょうそううん)が小田原城主として後北条(ごほうじょう)の基礎を築いた頃で、世田谷はその傘下にある源氏の名門吉良(きら)家の領地でした。 鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)は、氏神である八幡神と同様伊勢神宮(いせじんぐう)を篤(あつ)く崇敬しており、関東の地にも御厨(みくりや)といって伊勢神宮へ納める米などの作物をつくる土地を寄進(きしん)しました。このご縁でご祭神天照大御神を祀る天祖神社・神明社(しんめいしゃ)が祀られました。 但し、当社がそのご縁によるものかは不明です。 因(ちなみ)に、経堂在家村(きょうどうざいけむら)といわれていた江戸末期には、村内に伊勢宮、天神社、四稲荷社の六社があったようです。
天祖大御神 稲荷大神 北野大神
1507年(永正4年)
本殿…神明造り 拝殿…入母屋造り
例大祭…10月第一(日)とその前日の(土)
小田急線千歳船橋駅徒歩10分
無料
10分
無し
有り(隣接の公園内)