ほうりんじ
和歌山県和歌山市吉田495
天正年間(1573~)に兵火で鳥屋城は陥落、寺も全焼した。その後、約120余年を経た享保元年(1716)頃、寺は名草郡吉田の里(寺の現在地)に移され中興開山となり、現在に至っている。本堂に安置されて..
天正年間(1573~)に兵火で鳥屋城は陥落、寺も全焼した。その後、約120余年を経た享保元年(1716)頃、寺は名草郡吉田の里(寺の現在地)に移され中興開山となり、現在に至っている。本堂に安置されている歓喜天尊は、中興開山者山本明比丘が御室総法務頼遍大僧正から授かった像である。昭和20年の空襲では本堂のみ焼失を免れているので、歓喜天尊も往時の姿で現在に至っている。 紀州6代藩主宗直の信仰篤く、当寺が和歌山城の鬼門方位(東北位)に当たることから永く鬼門除けの寺護寺とされた。また、11代藩主斉順が歓喜天尊に祈願して嗣子菊千代の出生を得たといわれる。後の14代将軍徳川家茂である。往時の寺域は広大で現和歌山駅をも含んでいたが、大正年間に鉄道省に駅周辺の土地を徴収され、さらにその後の都市整備計画等により結局現在の寺域になってしまったようである。 現在、境内には「東の宮神社」がある。当初美園町にあった当神社は戦災で荒廃。復興を願う有志が、本堂のみ焼け残っていた当寺の境内に再興したいと思いつき、当時晋山(着任)したばかりの現住職に要請し、実現、今に至ったとのことである。 境内には石鳥居が目立つ。一番鳥居は天保8年(1837)、大阪両替商人殿村某が奉納したもの。大阪の相場商人の信仰が厚かった証拠の品物である。その鳥居の脇に「小梅筆塚」碑が建つ。紀州藩校学習館督学川合梅所の妻として、幕末から明治にかけて60年間書き続けた「小梅日記」で有名な川合小梅の記念碑だ。彼女が生涯歓喜天尊を篤信し続けた縁で建てられたものである。
弘法大師の開創と伝えられ、当初は有田郡石垣組(現吉備町垣倉)にあって、鳥屋城主畠山氏累代の祈祷寺であった。この間約800年といわれる。
密厳山
真言歓喜宗
十一面観世音菩薩
弘法大師
和歌山西国三十三ヵ所 第十七番