えんつうさんかんのんじ
大分県別府市亀川四の湯3
この寺の縁起は古く、国東の六郷満山を開いた仁聞の開基になる。その神仏習合の名残は寺域にちらばる石造彫刻にも見られる。その後無住荒廃の時代がつづき豊後国守護職大友持直のときに復興。 現本堂の裏手の..
この寺の縁起は古く、国東の六郷満山を開いた仁聞の開基になる。その神仏習合の名残は寺域にちらばる石造彫刻にも見られる。その後無住荒廃の時代がつづき豊後国守護職大友持直のときに復興。 現本堂の裏手の静寂な森の中には持直の墓を始め多くの五輪塔群が中世の雰囲気を漂わせている。この持直の菩提寺も慶長5年の石垣原合戦の際に兵火により消失した。 江戸時代隠元禅師の伝えた黄肇文化は山門の隠元筆蹟山号の額やその弟子即非の本堂の寺号の額にその一端を示している。寛文5年(1665)小倉城主小笠原侯寄進の堂宇は嘉永5年(1852)の失火により焼失したが、明治9年に再建され、現在の堂宇は京都宇治の万福寺の大雄宝殿をモデルに昭和59年に再建されたものである。
有り