かみそうやぎくまのじんじゃ
神奈川県大和市上草柳905
新編相模風土記及び古文書によれば往古は沢柳村と称し安土、桃山時代の末期慶長年中迄は深見村に属し正保年中に於て深見村を離れて草柳村と改めらる。 当熊野神社は創立年代不詳なるも、江戸時代の初期地..
新編相模風土記及び古文書によれば往古は沢柳村と称し安土、桃山時代の末期慶長年中迄は深見村に属し正保年中に於て深見村を離れて草柳村と改めらる。 当熊野神社は創立年代不詳なるも、江戸時代の初期地頭戸田五助その御神徳の偉大さに感銘し草柳村総氏子の赤誠により総鎮守として宮を再建、熊野三社大権現宮の名も一層庶民に知られ、江戸時代末期弘化二年二月、名主彦右衛門村民の総意を得、改めて熊野三社大権現を勧遷。盛大な五穀豊穣祭・祈雨祭等執行し其の御加護を乞い愈々崇敬も高まる。 尚嘉永六年十一月五日、神祗伯資訓王により再び熊野三社大権現を勧遷奉斉して以来五穀豊穣守護縁結び交通安全、除災招福の守護神として広く世に知れ亘り庶民の崇敬一層篤くなれりと言い伝わる。 昭和五十三年九月、氏子の総意結集し宮を再建。改めて熊野本宮の御分霊を勧遷奉斉して同年同月二十二日、盛大に御遷座の神事を執行。翌二十三日、造営遷座奉祝の大典を執行せり。
素戔嗚命、速玉之男命、伊邪那岐命、事解男命
村社