船橋御殿跡と東照宮
徳川家康は狩猟を好み、各地に狩猟用の「お茶屋」又は「御殿」とよばれる休憩所や宿泊所を建てさせた。慶長十九年(一六一四)家康は上総土気、東金で狩猟を行ったが、船橋御殿の建造もその頃であろうと推定される。家康は元和元年(一六一五)十一月ここに宿泊した。家康の宿泊はこの一回だけであったが、秀忠は其の後狩猟のたびに立ち寄ったと考えられる。将軍家の東金狩猟が寛永七年(一六三〇)頃に終止した後も船橋御殿は存続していたが、寛文末年頃(一六七〇年代)に廃止となったようである。船橋御殿の面積は約四〇四アールで、海老川西側の土手に囲まれた地域であった。その後、この地は大神宮宮司の富氏に与えられ、開墾されて畑地となった。
東照宮は富氏が建立したもので、この場所が御殿の中心であった場所であると伝えられている。(船橋市教育委員会掲示より)