あまおさん ひちょうじ
三重県桑名市下深谷部 2386
延暦十三(794)年 大和国の生駒山周辺より黄金の花瓶(けびょう・十一面観音の持物)を喰えた霊鳥が、現在地より2km山中の坊ケ谷に飛び来たりて美声にて仏法を説きました。 その噂を聞きつけた弘法大..
延暦十三(794)年 大和国の生駒山周辺より黄金の花瓶(けびょう・十一面観音の持物)を喰えた霊鳥が、現在地より2km山中の坊ケ谷に飛び来たりて美声にて仏法を説きました。 その噂を聞きつけた弘法大師がこの地にお越しになると霊鳥が十一面観音に変化なさいました。その姿を見た弘法大師は先程感得されたお姿を一刀三礼して等身大の御尊像を刻み草庵に安置しました。霊鳥が飛来した寺という事で「飛鳥寺(ひちょうじ)」と名付けられました。 その後、寺運は大いに栄え、寺域一里半、寺領千石、十二の坊舎が並ぶ密・律・禅の名刹となりました。 元亀二(1571)年 織田信長の伊勢長島の一向一揆攻略により全山灰燼に帰し、わずかに小堂一宇を残すのみとなりました。 寛永十二(1635)年 桑名藩主、松平定網公が当山に遊覧され二十一日間眼病平癒の祈願の為に参籠し、満願の夜に観世音菩薩の花瓶より滴る霊薬水で洗眼する夢をご覧になられ、忽ちに平癒なさいました。 定綱公は御礼に供料田を寄進し、また万治三(1660)年には定重公より年々の祈願料を寄進されました。 元禄年間には桑名藩家臣、南條三太左衛門宗親公が丹波国より自身の念持仏として地蔵菩薩を得られ、お祀りするに相応しい場所を探しておられた折、当山に登り堂跡の谷間より光明を放つ十一面観音の御頭を発見し早速京都で像体を修復し本堂及び坊舎を再建し御自身の念持仏地蔵菩薩も奉安なさいました。 再興の後、桑名藩士の中で月々に仏供米を寄進する家が百戸もあったと言われております。 また、当地は木曽三川の流域にして度々大洪水に見舞われ宗親公川辺より御本尊に民衆を救済し給えと懸命に祈った所、忽ちに雨が止み水も干して平常の様になりました。民衆は大いに歓喜し土砂などを取り除き夜の更けるのを忘れた程でした。しかもその日は八月十日の観世音菩薩四万六千日の功徳日でありました。
また、山号については止雨のみならず、旱魃の時に雨壷という古い陶器の壷があり、これに水を滴らすと忽ちに降雨したので、「雨尾山(あまおさん)」と呼ばれる様になりました。 明治二(1869)年 参詣に不便との事で本堂及び地蔵堂を現在地に移転し、法灯を今に受け継いでいます。
雨尾山
東寺真言宗
十一面観世音菩薩
「伊勢西国三十三所観音霊場」第32番札所