そうじゃだいじんぐう
福井県越前市京町1丁目4-35
総社とは大化の改新の結果、越前国にも国府(現越前市)が置かれ、国司は管内の官社を始め、国内神名帳所載の諸社を巡り親しく巡拝することになっていたが、やがて巡拝の労を少なくする為や急を要する祈願や祭礼の..
総社とは大化の改新の結果、越前国にも国府(現越前市)が置かれ、国司は管内の官社を始め、国内神名帳所載の諸社を巡り親しく巡拝することになっていたが、やがて巡拝の労を少なくする為や急を要する祈願や祭礼のために、国司所祭の神霊を一ヵ所に合祀して総社が建てられた。爾来、当社が越前国における総社とされる。
奈良時代の天平11年(739年)には、聖武天皇の勅願で諸国の総社に大己貴命(大国主命ともいい国土経営の神であり、土地の守り神としても信仰されている)を併せて祀る事になり、社伝に曰く、同年5月5日丙申の日に神霊が遷され、この併祀の際、大和国大神神社大物主の祭主、太田田根子命の後齎忠麻呂を筑前国の糟屋郡より召し、この御鎮祭の砌、帝都より供奉したという。元糟屋郡より出たるを以て糟谷を氏とし、元祖太田田根子命の田田を忠に用い、今にその職を伝えている。
以後 総社は越前一ノ宮及び二ノ宮と共に越前における代表的な社として、社領百余町、社家十家有り、代々領主および人々の崇敬をうけた。鎌倉時代の末期正応5年(1192年)頃には、遊行上人一遍僧徒の弟子他真教が数度に亘り参詣し、白山平泉寺僧徒の攻撃を受けるなどの争乱も歴史に名高い。
室町時代になると打ち続く戦国争乱により神領を蚕食され社殿が焼かれてその勢力は衰退したが、天正元年(1472年)越前の守護朝倉孝景公により社家宛に神領安堵の黒印状が出され、更に天正元年(1573年)には織田信長の朱印状も出されている、
天正年中(1573~1592年)前田利家公府中在城の時、本殿及び拝殿が寄進され、松平秀康公入国以来深く当社を崇敬して数多くの社領を寄進、同忠昌公、光通公の代になり、社領の判物を納め、時に応じて社参奉幣がなされた。本多富正公が府中(現越前市)の領主となった間もない慶長13年(1608年)30石の社領が寄進され以後歴代の崇敬を受け、文化元年(1804年)甲子8月、1千年の大祭が斎行された。
旧福井藩にて、郷社に列し、明治8年4月22日敦賀県にて県社に列せられ、同41年4月26日神饌幣帛料供進の神社に指定された。、同44年7月25日武生市(現越前市)御幸にあって天照皇大神を祀る無格社神明神社を合祀した。現在の社殿は大正15年6月に造営されたもので、本殿は流れ造り、拝殿は入り母屋つくりで千鳥破風を乗せ唐破風の向拝が続いている。 (公式HPより引用)
大己貴命・孝謙天皇・天地神霊・天常立尊・天地神霊・国常立尊・天照皇大神・五十八末社(祭神不詳)・越前国中官社 百二十六座・多記理毘賣命・狭依毘賣命・多記都毘賣命・少彦名命・事代主命・猿田彦命
県社
天平11年(739年)
例大祭 9/13・14・15・16
無し
有り