むりょうじ ろせつじ
和歌山県東牟婁郡串本町串本833
錦江山無量寺は、本土最南端の地である和歌山県東牟婁郡串本町に在る、虎関禅師の開山による臨済宗東福寺派の別格寺院です。 もともとは、現在地から少し離れた袋という小さな入り江の地区にあり、その地形故..
錦江山無量寺は、本土最南端の地である和歌山県東牟婁郡串本町に在る、虎関禅師の開山による臨済宗東福寺派の別格寺院です。 もともとは、現在地から少し離れた袋という小さな入り江の地区にあり、その地形故にたびたび津波の被害にあいましたが、宝永4年(1707年)10月の宝永地震による大津波で全壊・流失してしまいました。その後、流出した無量寺の再建の使命を帯びた臨済宗白隠下の禅僧、文保愚海和尚が入院(じゅいん)し、大津波より79年後の天明6年(1786)、辛苦の末、現在の位置に本堂再建の業を果たされました。
愚海和尚は京都の本山東福寺に留錫中、若き画家円山応挙と親交あり、『紀本土最南端の地、串本町の臨済宗東福寺派別格寺院 通称芦雪寺 無量寺は1707年に発生した南海トラフ巨大地震である宝永地震による大津波で全壊・流失したが[1]、80年後の天明6年(1786年)に8世愚海和尚によって再建された。和尚が京都にいた頃の友人であった絵師 円山応挙は、これを祝って障壁画12面を描いたが、年齢のためもあり高弟 長沢芦雪に障壁画を託して京から南紀に向かわせた。串本に着いた芦雪は、滞在中に自らも無量寺本堂のために『龍虎図』などを描いている。 障壁画の実物は、新しい収蔵庫内に配置・展示されており、観客が来たときのみ収蔵庫を開け電気をつけて鑑賞できるようになっている。