だいしいなりじんじゃ
神奈川県川崎市川崎区中瀬3-5-1
当神社は源義家(平安の後期の武将頼義の長子通称八幡太郎が前九年の役に父に従って奮戦、後に陸奥守となり、後三年の役を鎮定。東国の源氏の基礎を固めた)の旧臣平間某の勧進と伝えられる。 永禄二年..
当神社は源義家(平安の後期の武将頼義の長子通称八幡太郎が前九年の役に父に従って奮戦、後に陸奥守となり、後三年の役を鎮定。東国の源氏の基礎を固めた)の旧臣平間某の勧進と伝えられる。 永禄二年小田原北条氏の領地となり、朱印地三石を寄付され、江戸時代より大師平間寺の別当神社となる。 御祭神は大歳神の神像(十一面観音立像との説もある)は弘法大師の作と伝えられ、明治四年神仏分離に、大師平間寺に遷し、同寺の宝物となったが戦災で焼失した。 神仏分離の際に仏籍に関わりが無く、平間家(弘法大師の像を海中より引き上げた大師平間寺を建立した平間兼乗の家系)を継いでいた中村昌彦が大師平間寺より、分家として宮司に任ぜられた。 又、大師平間寺とのこの様な関係から、大師稲荷神社と称され、明治六年村社となる。 境内は松が生い茂り、本殿は塀に囲まれ荘厳なたたずまいを見せ、江戸から明治にかけて、祭礼には流鏑馬や多数の舞台がかかり、参拝者で大変なにぎわいを見せた。
当神社は源義家の旧臣平間某の勧進と伝えられる。 永禄二年小田原北条氏の領地となり、朱印地三石を寄付され、江戸時代より大師平間寺の別当神社となる。
大歳神 大宜都姫神 屋船豊請姫神
村社
大治3年 (1128年) 前後と思われる
大師稲荷