こさかじんじゃ
大阪府東大阪市下小阪3丁目5−43
本地は古来若江郡に属し、北小阪村と称していたが、寛永十年(一六三三)正月、下小阪村と改称する。 これより以前の天正二十年(一五九二)、十八件の家がこの原野開拓に当り、水利至便、五穀豊穣を祈願する為..
本地は古来若江郡に属し、北小阪村と称していたが、寛永十年(一六三三)正月、下小阪村と改称する。 これより以前の天正二十年(一五九二)、十八件の家がこの原野開拓に当り、水利至便、五穀豊穣を祈願する為、当社を奉祀したのが起因である。水分(みくまり)とは水を配り与える、すなわち灌漑を司る神の御名である。後に語言が変り「みくまり」が「みこもり」(身籠)となり更に「こもり」(籠)となり妊婦、安産、子授け神として世に「小阪こもり宮」と称し近郷の崇敬を集めた神社である。 往昔境内に葦が密生しこれが皆片葉であり諸病に功ありと伝えられた。俗謡に「花の下坂名所が御座る、宮に片葉の足御座る」と謡歌されたのは当社のことである。 明治五年小阪神社と改称、昭和三年指定神社に登録、昭和二十一年宗教法人小阪神社と改め従来通り下小阪一円の氏神として奉祀し現在に至る。昭和五十二年十二月社殿奉建。(境内内 小阪神社略記より)
元禄年間、下小阪の原野を開拓した移住者たちが、水利至難のため大和の国吉野の水分大神と袖振山の受鬘神をまつったのにはじまるといわれています。もと小守勝手明神といわれていましたが、明治5年に小阪神社と改称されました。 昔は境内に葦が密生していたと伝えるように、この付近は旧大和川支流の自然堤防の東側に後背湿地が広がっていました。この湿地を開発した水田は、多雨期の水浸かりによる損害とともに、一旦日照りが続けば、灌漑用水を上流や古田が優先して取得するため干損にも苦しんだといわれています。こうした情況に対する人々の心の拠り所として、この神社がまつられたと考えられます。 境内には明治二十三年(1890)に建てられた鳥居の横に、寛政五年(1793)と享和二年(1802)銘の燈籠一対があります。参道西側には金毘羅大権現と白龍稲荷大神の小祠がまつられ、金毘羅大権現の前には「寛政四壬子年(1792)」と刻む燈籠があり、もと社務所の位置にあったといわれる稲荷大明神の前には、風化した竿部分に年号等は確認できませんが、基礎部分に蓮弁を施す18世紀前半頃の燈籠がのこされています。
天水分神・國水分神・受鬘神
一月一日 元旦祭/二月三日 節分祭 七月第二日曜日 夏祭/十月 秋祭 毎月一日・十五日 小祭