たいしどうはちまんじんじゃ
東京都世田谷区太子堂5-23-4
今から千年ほどの昔平安時代の終わり頃、陸奥の豪族安倍氏の反乱(前九年の役)を源頼義・義家親子が征伐に赴く途中、鎌倉道に面したこの神社に戦勝を祈願し、杯を交わし休憩をしたと伝えられています。 正確な..
今から千年ほどの昔平安時代の終わり頃、陸奥の豪族安倍氏の反乱(前九年の役)を源頼義・義家親子が征伐に赴く途中、鎌倉道に面したこの神社に戦勝を祈願し、杯を交わし休憩をしたと伝えられています。 正確な文献の資料はありませんが、このことから永承六年以前には、この地の守り神としてこの神社の歴史が始まっていたと考えられます。 御祭神は、当初はこの地を開拓した先祖をこの地の守護神としていたと考えられますが、後に源氏の氏神となった八幡神が、源氏の関東での領地拡大に伴い、次第にその地の守り神として祀られるようになったことにより、この社にも八幡神が祀られるようになったと思われます。 源頼朝による幕府政治が鎌倉に始まり、さらに室町時代には世田谷を始め近隣の土地を領地とした吉良氏や、江戸幕府を開いた徳川氏の源氏一門の八幡神への信仰の影響もあって、世田谷には八幡神社が多くあります。(50社中12社) 当神社も円泉寺の記録によれば、文禄年間に八幡神社として建立されたとあります。豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼし、全国統一をした後の頃になりますが、北条氏の家臣の一団がこの土地に移り、草分けとして開拓を進めた頃のことです。おそらくその頃に社殿が神社らしく整えられたことにより、その時代の創立とされたのでしょう。 江戸時代には世田谷全体が、幕府の直轄領である天領、あるいは大名(彦根藩・井伊家)や旗本の領地が入り組み、領民と土地はそれぞれの支配者の下にあり、太子堂の地はその縮図のようでした。 この頃、ご府内(江戸城下)への一大農産物供給地として発展しておりましたが、支配違いの農民たちは、八幡さま祭礼に心を一つに神祭りに奉仕し、神賑わいを楽しみ村落の統一を保っていました。 明治の近代化は、和魂洋才の精神を柱にして富国強兵を目指しました。町並みは広がり、農地もしだいに軍用地・商工地・住宅街に変わりました。 太子堂という小さな一地区の神社も、西欧諸国に並ぶ発展を急速に進める国策に従い「国家のまつり」を軸として町の発展を祈る場所となりました。 国家意識が最も高くなった昭和11年~12年にかけて、当八幡神社も小さな社から現在の立派な社殿や、鳥居、神楽殿・社務所が新築し整えられ、神社前の道路も改修されました。 戦時中、この近辺はアメリカ軍の爆撃を受けず、神社も守られました。戦後の復興は目覚ましく、経済は高度成長し、東京オリンピックや新幹線・高速道路の整備により、街並みも新しく変わり活気がみなぎるようになりました。 現在、この神社も由緒ある太子堂の名にふさわしく境内も整備され、一部は区の要望により児童公園地として無償供与されています。平成23年春には、大地震に備えて社殿・神楽殿に耐震補強がなされ、夜も明るく多くの灯籠の光に包まれ、御神威ますます活々と高く清らかな佇まいを醸し出しています。
応神天皇