ふくとくじんじゃ(めぶきいなり)
東京都中央区日本橋室町2丁目4-14
当社の創祀された時は明らかではありませんが、当社に伝わる略記によると、貞観年間(清和天皇・860~876年)には既に鎮座していたようです。 武蔵野の村落である福徳村の稲荷神社として祀られ、その..
当社の創祀された時は明らかではありませんが、当社に伝わる略記によると、貞観年間(清和天皇・860~876年)には既に鎮座していたようです。 武蔵野の村落である福徳村の稲荷神社として祀られ、その地名をとって社号としました。 その鎮座する社地は広く、社殿も宏壮で、社の四隣は森林、あるいは田畑に囲まれ、農家が散在する片田舎でした。土地の人は神社の森を稲荷の森、その森の一端に建てられていた里程標(石造一里塚)を「稲荷の一里塚」と呼び親しんでいました。 後の明暦3年酉年(1657)正月8日の大地震により、一里塚は崩壊してしまいました。 当時の人々は、この散乱した碑石の残存した破片を集め保存したと考えられています。 その碑名の移しは次の通りです。 表 宮戸川邊り宇賀の池上に 立る一里塚より此福徳村 稲荷森塚迄一里 裏 貞観元年卯年 三つき吉祥日 そもそも当社は、元来武将の信仰があつく、源義家朝臣(みなもとのよしいえあそん・1039~1106年)が深く崇敬されていたことが記されていた、と伝わっています。江戸幕府以前には太田道灌公を合祀し、その兜・矢・鏃などが奉納されたと伝わっています。 天正18年(1590)8月1日に入府した徳川家康公は、同じ8月に初めて参詣され、その後参詣は数度に及びました。
貞観年間には既に鎮座していたようである。武蔵野の福徳村の稲荷神社として祀られ、その地名を社号とした。
倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
創建年代不詳
芽吹稲荷 芽吹神社
東京福めぐり
東京メトロ銀座線•半蔵門線「三越前駅」A6番出口1分