えんじょうじ
岐阜県羽島郡笠松町円城寺字中屋敷917番地
寺に伝わる書物などを総合した『圓城寺略由来記』によれば、『推古天皇の治世、尾張国司の小子部膳臣(ちいさこべのかしわで)という者の娘・膳三穂姫が聖徳太子の給仕となっていたが太子の寵愛を受けて懐妊し、子..
寺に伝わる書物などを総合した『圓城寺略由来記』によれば、『推古天皇の治世、尾張国司の小子部膳臣(ちいさこべのかしわで)という者の娘・膳三穂姫が聖徳太子の給仕となっていたが太子の寵愛を受けて懐妊し、子(尾張王子)を産んだ。膳三穂姫は出産後の肥立ちが悪く没してしまい埋葬されたが、魂が数百余町を飛行して河野の大塚というところに落ちて夜な夜な光り輝いた。この話を姫に付き従っていた漢部豊尋(あやべのとよひろ)という者が大和で太子に伝えたところ、太子は「仏法有縁のところだから早く寺を創建して姫の菩提を弔え、あなたが法体となり法華経を広め観音を安置せよ」と言ったので、出家して常山と名乗り、観音像を安置して寺を建立した。このころ高麗から来ていた恵慈・百済から来ていた真聡の二法師が仏学を授けるべく来日していたが、恵慈は太子の依頼で開眼供養を行った。このとき推古天皇より寺に清涼山圓城寺の名が与えられた。このとき定まった宗名はなかったが、自ら法華経を用いていることから法華宗と名乗っていた。 常山法師は死に望んで弟子・専澄に跡を譲り、河野より東の豆戸(前渡か)へ移って没した。この地には後に葉栗山照高院という末寺が開かれた。 延暦年間、最澄によって比叡山が開かれると、圓城寺15世・唯玄坊も最澄に帰依して圓城寺を延暦寺末寺とした。 弘仁2年(811年)の秋、大雨による洪水で圓城寺が流され、照高院にて本寺たる圓城寺を兼ねることとなった。 天暦年間(947年-959年)、洪水で照高院も流されてしまった。このとき住職をはじめ僧らは圓城寺の跡地である圓城寺村(延喜年間に大判事・藤嶋勝真によって大塚村から改称された)に再建された。 保元年間(1156年-1159年)、美濃大桑城主・土岐美濃次郎茂通に焼かれ寺は焼失し荒れ果てた。 親鸞聖人が関東より京へ戻る途中に三河国の柳堂で説法をしたとき、聞いていた照高院42世・西正房最勝が浄土真宗へ改めた。またこのとき寺号を自身の房名と同じ西正坊とした。 元和年間(1615年-1624年)、西徳寺と改められた。 天保2年(1831年)、西徳寺(最勝から数えて)24世・釈教貞により寺社所に願い出て往古の名・清涼山圓城寺に戻された。』という。のちに葉栗山へ山号が改められた。
円城寺(えんじょうじ)にある真宗大谷派の寺院。同派岐阜高山教区第三組に所属している。河野九門徒・尾張六坊のひとつ。
葉栗山
浄土真宗
真宗大谷派
伝・飛鳥時代
阿弥陀如来
伝・常山(漢部豊尋)
伝・聖徳太子(厩戸王)
1235年(嘉禎元年)
西正房最勝
葉栗山河野圓城寺(かわのえんじょうじ)
河野九門徒のひとつ 尾張六坊のひとつ
無料