当山に伝わる「観福寺厄除弘法大師縁起」には次のように記されています。
抑も當山厄除弘法大師は、大師自ら御彫刻遊ばされたる霊像にして日本厄除三大師の一と称し奉る。
今其縁起を案ずるに人王五十二代嵯峨天皇の御宇弘仁六年、大師四十二才の御厄年に当たらせられ親(みずか)ら御像三躯を彫刻し誓願してのたまわく。凡そ我が滅後の衆生にして、誠心我れを念ずる者あらば如何なる厄難も、我れ能く之を除かんと、乃ち其の一を禽獣草木(きんじゅうそうもく)の厄を除かんがために山に置き、其の一を魚鼈(ぎょべつ)を救はんが為に海に流し、其一を庶人の災厄を除かんが為に里に留め給ひき、去る程に山に置きける霊像は、今は山城吉野郡大蔵村大蔵寺に安置せられて大悲利生の光を放ち、海に流せる霊像は今は武州河原の平原寺に在まして救世弘願の益を垂れ給ふ。又里に留めし霊像は京都嵯峨の大覚寺心経殿に安置せられて抜苦興楽の護念空しからず、今當山に安置せられ給ふは即ち比の大師にて在しますなり。茲に當山三十三世の住持鏡覚(けいがく)和尚、一年京に遊びて嵯峨の院を訪へりき、院の阿闍梨は當山三十世三等和尚の法の弟なり。阿闍梨鏡覚和尚に告げて曰く、過ぎぬる年、我が法の兄三等和尚、東国庶人結縁の為に、新四国霊場を開創せられたりと聞き、我れ喜びに堪えず。聊か微志を運いて、其の浄業を賛けんと思いけるも、東西数百里、山河相隔ちて事、志と互い空しく機縁の到るを待つのみなりしに、図らざりき今日茲に和尚の来り訪ふに遇はんとぞ。之れ我が素願満足の時到れるなりと、乃ち心経殿安置の厄除弘法大師の御像を付嘱し、旦つ曰く願わくば之を以て新四国霊場の親大師として安置し奉るべしと、鏡覚和尚感喜極まる所を知らず。頓首して之を受け、奉侍して郷に帰り、恭しく山内の宝殿に安置し奉れり。(後略)