だいせんじ
愛知県犬山市栗栖字寺前768
応永8年(1401年)、足利義満から寺領を二十町歩譲られた無極慧徹によって曹洞宗の寺院として創建された。慧徹は七堂伽藍を建立し、禅道場を開いた。しばらくの間、慧徹とその弟子・月江正文は戦乱を避けるた..
応永8年(1401年)、足利義満から寺領を二十町歩譲られた無極慧徹によって曹洞宗の寺院として創建された。慧徹は七堂伽藍を建立し、禅道場を開いた。しばらくの間、慧徹とその弟子・月江正文は戦乱を避けるために大泉寺と龍泰寺(関市下有知)を行き来した。 永享2年(1430年)12月18日には無極慧徹が81歳で没したことに伴い、正文が2世となる。 嘉吉元年(1441年)、後小松天皇の勅願所となる。5年後の4月3日には、現在文化財となっている懸仏が完成した。 寛正2年(1462年)1月3日、月江正文が没した。3世として分明が継ぐも、のちに寺は無住となり、荒廃していく。 天文10年(1542年)、近辺を渡り歩いて坂祝・長蔵寺を開山するなどした先照瑞初を猿喰城主・田原左ヱ門尉が招き、臨済宗の寺院として寺を再興させた。6年後に瑞初は没するが、翌年に八百津・大仙寺から移ってきた以安智察が住職となる。智察は住職がいなくなっていた長蔵寺の住職も兼務した。このころ兵火で被害を受けるが、織田信長配下の河尻秀隆によって再興された。 智察は天正15年(1587年)2月26日に74歳で没した。 天正18年(1591年)や慶長17年(1612年)に寺は焼失した。 天正19年(1592年)8月7日、3世・鶴峯が没した。 寛永2年(1626年)7月17日、4世・庸山景庸が没した。 寛文元年10月1日(1661年11月22日)、5世・愚堂東寔が山科・華山寺において85歳で没した。 寛文6年(1667年)10月29日、7世・説玄景演が没した。 1702年、8世・天源が隠居し、梅山宗竹が住職となる。1736年10月7日には9世・梅山宗竹が没した。 1739年5月29日、8世・天源が没した。 1755年、10世・大永が隠居する。 1791年4月22日、道林が没した。 1796年10月7日、洪洲が没した。 1827年9月21日、東宗が67歳で没した。 1836年4月、瑞源が没した。 1858年4月12日、苔洲が没した。 1880年旧2月3日、16世・信定全恭が没した。 1891年10月28日、濃尾地震によって本堂や庫裏などが倒壊した。1901年に本堂兼庫裏の再建が完了をみた。 1904年4月24日、17世・泰明が没した。 1918年1月、18世・泰道俊康によって鐘楼堂が再建された。 昭和21年(1946年)3月19日、18世・泰道俊康が72歳で没した。 1983年、19世・大道文英によって本堂・庫裏・山門の屋根の葺き替えや伽藍の改修が行われるが、5年後には文英が没した。
栗栖(くりす)にある臨済宗妙心寺派の寺院。
補陀落山(ほだらくさん)
臨済宗
臨済宗妙心寺派
1401年(応永8年)
聖観世音菩薩
無極慧徹(むごくえてつ)
足利義満
補陀落山大泉禅寺
無料
有り(境内西)
有り