今から二千百余年前、垂仁天皇は天照大御神の尊い御神徳が広く他国にも行き渡ることを願い、皇女倭姫命として人々に仰く道を開かしめられた。初め甲賀日雲宮に宮所を定められ、次いで御神幸あらせられたのが、ここ坂田宮で垂仁天皇の八年7月7日とされている。この日坂田郡の人々は豪族坂田公と共に、天照大御神を迎へ敬ってこれを祀り、里人の奉仕によって大御神奉斎の神殿が設けられこの宮所でその年の秋の新嘗祭も、又その翌年の祭りも鄭重に営まれ神楽の祝いも賑やかに行われた。その翌10年7月7日の終りに至って名残を惜しむ里人に見送られ、大御神はこの地を御発幸あらせられ、美濃・尾張さらに伊勢国に入らせられ、最後に同天皇の26年に五十鈴川上の現在の皇太神宮の地に御鎮座あそばされたのである。
坂田郡の人々は、この地に2年の間大御神の奉斎されたことを永く記念するため、その宮所とされた神殿をそのまま大御神の宮所として、これを坂田宮と呼んだ。そして御神田から採れた御供を捧げた。また御神徳を仰いで、食物の神たる豊受大御神の御殿をも並び立て厚く祀った、これが坂田神明宮の起こりである。伊勢神宮よりも早く御跡を垂れさせられた所として「元伊勢」とする信仰がある。
現在の御社殿は、伊勢神宮にならって内宮外宮の御社殿を中心に内宮の七別宮と外宮の四別宮、および倭姫命社も併せ祀っていることは、伊勢に次いで尊いことである。境内には真名井の清泉が尽きず、神代のままの御神水は参詣者の心を清々しくしてくれる。さらに毎日の御饌米を奉った宇賀野の神田には、この御ゆかりから、そのあと後にも永く皇大神宮の御料地とされ「坂田御厨」と呼ばれた。毎年の御初穂米は皇大神宮に送られるとともに、一部は坂田宮にも奉られ大御神の御饌米とされた。
応仁の乱以降、戦国時代にはしばしば兵火にかかる厄に遭った。元和3年片桐且元の寄進によって本社の再建がなり、ついで井伊氏が彦根城主となるや、享保18年には彦根中将直惟は、鬼門鎮護の神として、当社崇敬の念厚く社殿を造営して、近江国7郡の五穀豊穣の御祈願所とされ、且つ藩郡社、あるいは坂田一群の総社とされ、郡内外の信仰を集めた。
明治維新となるや、同5年地元宇賀野村の氏神と定められ、同24年に内外両宮の新社殿を造営した。これが今日の社殿であり、由緒深い神社である。
(由緒書より引用)