けいしんだいきょうかい
愛知県豊橋市神野新田町ロノ割154番地
神道修成派の教祖は、新田邦光と申され、祖先は新田義貞公の御舎弟で、南朝の忠臣である新田(脇屋)義助公であります。出生地は、徳島県美馬郡脇町字拝原で、御帰天後の神名を東洋修成神と申し上げます。国学と漢..
神道修成派の教祖は、新田邦光と申され、祖先は新田義貞公の御舎弟で、南朝の忠臣である新田(脇屋)義助公であります。出生地は、徳島県美馬郡脇町字拝原で、御帰天後の神名を東洋修成神と申し上げます。国学と漢学の大学者であられたので、門人たちはその高徳を称えて、東洋先生あるいは東洋聖人と仰いでおりました。
十九歳ごろより諸国を巡遊し、勤皇の志士として、栗田宮、岩倉具視、梅田雲浜、橋本左内らと交遊し、嘉永六年には大森海岸の警備に参加し、また神道家としては、嘉永元年(一八四八年)二十歳の時、布教伝道の志を立て門人の教化を開始しました(立教元年)。
明治維新に際しては、濃飛鎮撫を建白し、門人らを率い、王政復古の主旨を説き、戦わずして鎮撫の大業を達成し、飛州高山取締となりましたが、政治の過中に巻き込まれ、武州忍城に幽閉されました。その半年間の幽閉中、大病に罹り生死の境を越えられたことにより宗教的回心に達し、無実が明らかになり赦免されてからは、修成道の教法によって教導に専念することになりました。
明治二年(一八六九年)、古事記、日本書紀の神道聖典に源由した哲理であり神道神学の神髄である「修理固成光華明彩」の教法によって開教されました(開教元年)。明治六年八月に「修成講社」の創立が教部省より許可され、さらに明治九年十月二十三日に、神道十三派のなかで最初に一派特立が許可され、以来「神道修成派」の教団名一貫して用い、平成元年に開教百二十年を迎えております。現在は、四代目管長・新田邦夫が就任しています。
修派大神 御嶽大神 伏見稲荷大神 正一位秋葉大神
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