じょうしょうじ
福井県福井市三十八社町9号27番地
平判官康頼入道性照の息平浄盛四七才出家し、親鸞の子善について修行し行運都の請に応じ開基となる。心光山常照寺と号す。もと深嶺院と称す、と云う。縁起によれば承元元年(一二〇七)の春、親鸞越後の国へ流さ..
平判官康頼入道性照の息平浄盛四七才出家し、親鸞の子善について修行し行運都の請に応じ開基となる。心光山常照寺と号す。もと深嶺院と称す、と云う。縁起によれば承元元年(一二〇七)の春、親鸞越後の国へ流さる際この寺に滞在法話されしことあり、その縁により六字の名号と和歌を残し旅立たれた。 その後応長元年(一ニーー)覚如上人親鸞の遺跡を訪ねて諸国巡されし時立寄られしことあり。 これより先浄盛は宗祖の真影安置を志し大谷本廟に詣て覚如上人にし其の旨願出親鸞上人木像を自ら刻み二幅の絵像を添え賜る、これに依り近郷より参詣する者日々の数を増し未寺七十ケ寺門徒三千数百に及ぶ。領主朝倉家境内七反七畝十六歩(約7600m2)寄進ありて隆盛を極めしが後、織田長の兵火にかかり量子炭係に帰す、以後成勢全く地に落ち、止むなく一時吉田郡離村に移住するに至る。天正八年(一五八〇)戻りて徳尾村に小庵を結びて伝灯せり。其の後いつの頃元の三十八社村に戻りしか明かならざるも安永三年(一七七四)午四月安保村報恩寺に宛てたる文書に徳尾村常照寺とあり越えて文化十四年(1818)今村増田治郎左工門香尊帳に八社常照寺とあり。
この寺五分市村摂寺善照上人の請により宝物の内、鏡の御景、六字名号、名体不離の尊像光明品等を譲った縁により同家と法類のよしみを結び以後一派の本山格式を以て遇されることになった。隔年毎に八月二十五日宝物虫千の際同寺に至り通称あかずの門より参進、錠を開きて共の有無を検する習わしとなっている。又寺の住職たるべき者得度の時一派本山の格式にて行われ毫摂寺の免許なくしてこれをなすことが出来ることになっていると言う。又寺の先代住職の脇掛を御代前に掛置くことが出来るのも本山の格式による為である。 宝物として、覚如上人自作の親鸞上人木像、親鸞自作の聖徳太子像、行基菩薩作の十一面観音像、桃園天皇御筆の和歌一首、泰澄大師作来迎阿弥陀如来像、登旨二通
天正年間一揆兵乱の際門徒東鳥村野尻四郎兵衛なる者危険を感じ堂内安置の仏像を背負いて逃れ難を免るという。後に其の功を賞し遇するに永代家総代たるの地位を以てせりと言う。 本堂入口に額あり「心光山」明治壬午一月応嘱。福井県従五位石黒務の書、年は明治十五年なり、県は今の知事なり。下荒井村広場伝十郎氏今の主人務氏の祖父の労に依るものなり。 本堂に入りて額あり「真宗精舎」春岳の書なり。松平慶永第十六代福井藩主春岳と号す。 境内入口門柱あり。福井大橋係柴田公創設以杠半矼、明治己改築旧橋石柱永久為記念。と刻す。 寄進人福井市吉田順之助、大正八年建え。明治記の番は明治四十二年に当る。吉田順之助氏は浅水二日町吉田茂兵衛の出なり。
心光山
浄土真宗
真宗出雲路派
阿弥陀如来
福井鉄道福武線「泰澄の里駅」から徒歩7分