ひのきたのじんじゃ
大阪府大東市大東町538
由緒は不明ですが、宝暦8年(1758)に氷野・赤井両村が作成した社殿の修復願の写が伝わっています。もともと一村であった氷野と赤井は、明治35年(1902)に赤井北野神社が分祀されるまでは、ともに氷野..
由緒は不明ですが、宝暦8年(1758)に氷野・赤井両村が作成した社殿の修復願の写が伝わっています。もともと一村であった氷野と赤井は、明治35年(1902)に赤井北野神社が分祀されるまでは、ともに氷野北野神社を氏神としていました。拝殿前には文政5年(1822)に氷野村から奉納された燈籠と赤井村から奉納された狛犬があります。現在の社殿は昭和43年(1968)に建てられましたが、以前の社殿で使用されていた象鼻や蟇股が残されています。北野神社の参道は、江戸時代中期まで当地の東側一帯に存在した深野池の堤防跡といわれています。元禄15年(1702)堤防の内側に尼ヶ崎新田が開かれ、深野池開発のさきがけとなりました。新田開発後、当地周辺では農業用の井路(水路)が開かれ、水運もさかんとなりました。また当社では、毎年9月15日に深野南新田(現在の平野屋新田)の井路から砂を持ち帰り、参道を補修する「砂もち」といわれる風習が長らく行われていました。
菅原道真
10月20日