創立年代は久遠にして詳らかでないが、出雲風土記所載の比和社である。御祭神も天照皇大神瓊瓊杵尊を主祭神として祭られていたが、当地住人福間重賢と言う者が、山尾谷において鐻を築いて砂鉄事業を営み成功したため、それまでに大和国城下郡の伊多社、麻気社より石凝姥尊を鑪場の守護神として勧請、鏡作社として祭っていたのを土地の産土、比和社へ合祀せんと思い、(独力)で再建御造営して社号を鏡宮大明神と改めたと古記録に有る。因って明治維新神社取調の際、社名を復旧しようと藩庁へ請願したが、当時事務繁雑のため不幸詮議に成らずいまだに鏡神社と言っている。往時は社地が東西三百間(五百五十米)南北三十間(五十五米)馬場百間(百八十米)神田七畝(六九三平方米)畑六畝(五九四平方米)神主屋敷二畝(一九八平方米)の記録が残っている。 特殊信仰並神事禱祭 旧二月十日に行う五穀成就を祈る(祭)行事で献饌に併せタヅとウツギの木を平年は一尺二寸、閏年は一尺三寸の日本を白紙に巻き藁で結んだ禱木を氏子中の水田地主の戸数程供へ、中臣祓をその年の戸数ほど唱え祝詞祈念をして撤下して配る。各家では田の水口に差し立てて豊作を祈る。なお当日は社家へ集り一汁二菜一飯神酒を頂き祝ったのであるが、戦時中より取りやめた。賀齢祭、氏子中の厄年と年賀の者が春祭に参拝昇殿、献饌、二柱の行事、祝詞、各自玉串拝礼、直会を行う神札、お守、福豆を授与する。