当地は極めて古くより古代人が居住していたと考察されており、従来発掘された遺跡遺物は旧石器時代(一万年前)と想察され、叩石、石斧、凹石、また縄文式土器、礫器、鯨骨類、弥生式土器、土師器等が採掘されている。これらは祭礼等に使用されたとされる。また、古墳時代のものとしては、古墳八基が確認されており、こららは4~7世紀頃に近地の集落を支配する豪族がいたことがわかる。この他の人たちは常時漁獲物、製塩、農産物により生活し、生活規模は相当大きなものであったと思われる。この様にして往古より居住していた住民らは祖先を祭り、また神を祭り、神の加護のもと生活の糧として農漁業を営み、これに伴って寺院が盛んに建立されたのは室町時代以降江戸初期14~17世紀までといわれる。神社の由緒は詳らかではないが口伝古文書の確認によれば享保21年(1736)の迫間浦指出書、迫間神社宮七社とあり、次いで明和2年(1765)寺社造立覚に八柱神社の宮建神遷とあり、明治3年11月に八王子神社と改称して迫間八幡神社と称号。明治41年11月境内外社11社を合祀して八柱神社となる。特に乳母神様と称せられる宝暦元年(1751)に御造営され神遷された神社が合祀されている。子供の百日咳に御神助があり、真綿を供進して平癒祈願のため多数の方が参拝される。