称名寺は案内板によると「当地方第一の古刹、奈良時代は「法相宗」であったが35代630年の後、法相真言兼学となり、後「真言宗」となった。特にキリシタン宗門の起請文と十字架、郷目の三幅一対、宝篋印塔、板碑等は、考古資料として注目されている。」とあります。称名寺の創建は天平18年(746)、奈良時代の高僧である行基菩薩によって開かれたのが始まりとされます。伝承によると行基菩薩は十王像を笈で背負って来たとされ、その故事が転じて地名の「十王」が起こったと伝えられています。当初は法相宗の寺院でしたが、永和元年(1375)に高野山(和歌山県伊都郡高野町:真言宗総本山)の僧、我光和尚により真言宗兼学となっています。
称名寺境内は荒砥城の北東に位置する為、城の鬼門鎮護の寺院として歴代城主から庇護され寺運が隆盛し、往時は門前に六坊を擁し門前町も発展し大いに賑わったそうです。天正19年(1591)、豊臣秀吉による奥州仕置きにより米沢城の城主伊達政宗は岩出山城(宮城県大崎市)に移封となり、当時の荒砥城の城主大立目修理と称名寺住職円輪法印もこの地を離れ野手崎城(岩手県江刺郡野手崎)に移った為、衰微しました。
江戸時代に入ると真言宗の寺院として再興、一方で近隣にキリスト教の布教施設(切支丹屋敷)が出来、村人の多くがキリスト教に転じたとされ、米沢藩で切支丹の弾圧が厳しくなり処罰されたそうです。その時、信者が書いた起請文が称名寺に残されており「切支丹文書」として昭和45年(1970)に白鷹町指定文化財に指定されています。寺宝である郷目貞繁筆とされる紙本墨画天神花鳥図は平成20年(2008)に白鷹町指定文化財に指定されています。称名寺の管理していてる阿弥陀堂は行基菩薩が彫刻した阿弥陀如来像が安置され、天明3年(1783)の火災でも焼失を免れた為、火防に御利益があるとして信仰の対象になっています。宗派:新義真言宗。本尊:大日如来。