社伝や原田家(ご鎮座以来明治の半ばまで長らく社職として奉仕)記録等によりますと、治承四年(1180年)源頼朝が鶴ヶ岡八幡宮の御分霊を勧請、相模国小林郷丸山にご鎮座、その後大高城主 花井備中守がこれを大高の里へ遷され、現在のご鎮座地と城山(大高城址のある地)の両地に祀られました。
この大高に遷し祀られた年代については明らかではありませんが、鎌倉時代の初期西暦1200年頃と思われます。
文明年間(1469年~1486年)に水野和泉守が城主となりその子大膳等が田地三十貫文を当社へ寄付されましたが、やがて天正年間にこの田地等は豊臣氏の手に渡ったようであります。
徳川家康が桶狭間合戦の行われた永禄三年(1560年)の前に今川義元の命を受け兵粮が欠乏していた大高城(当時今川方)への兵粮入れを成功させたことは大高城の兵粮入れとして古来有名ですが、この家康は永禄四年(1561年)二十歳のとき、当社に参詣御祈祷をされています。
右のように当八幡社は極めて由緒のある歴史をもたれ、従って当大高町においても氷上姉子神社に次ぐ名社として古来町民の尊崇厚く、大正三年に拝殿、渡殿、鳥居、手水舎等を新築、昭和五十六年には本殿改築、平成十一年には社務所の改築を行い平成十四年に拝殿を新築し境内を整備しご社頭はいよいよ栄え、今日にいたっております。
平成二十五年九月 八幡社 (境内の由緒書より)