(境内石碑より)
此の地の稲荷神社は鎌倉時代武蔵ノ国荏原郡馬込村の南西に塚越、中丸の二つの字名の地があり、各々に正一位稲荷大神神を祭る祠があった。以来両社は其の地の字に在む農民によってまもられて居た。
昭和の初め塚越の総代は河原源一、河原半七郎、久保井銀次郎の三氏、中丸の総代は河原定太郎、河原久太郎、河原久輝、河原栄蔵の四氏であった。しかるに昭和八年十月一日市制がしかれるに当って両字は合併して馬込町西二丁目となり、昭和二十一年十一月三日、西二丁目拾蕃地の塚越稲荷神社、西二丁目五八番地の中丸稲荷神社は合祀されて西二稲荷神社と改称された。
昭和三十八年八月より、社池が東京都交通局の地下鉄用地として要請され、昭和三十九年二月の初午祭の際、河原清吉、高橋正夫両氏の発議により現在地に移る事を万場一致で決議された。同三十九年十月五日地鎮祭を執行、同月二十六日上棟式を執行、同十二月二十日竣工祭を執行す。
御祭神は宇迦之魂命で、現在の御神体は元塚越稲荷講の昭和十年三月、初午祭宿高瀬庄蔵氏宅に於て此の地に居住していた佐藤清蔵氏後の玄々先生より御神体像御寄進の内意を受け、講中一同して彫刻をお願いした。しかるに時勢の移りに大きな変化を主きたし、第二次世界大戦争のため、戦禍を蒙りて京都に移り住んで居だ玄々先主より御神体像の製作完成の報を受け、昭和三十七年十月七日、西二稲荷神社奉賛会は代表河原清吉、森市郎、芹樺辰雄の三氏を京都妙心寺大心院に派遣し、玄々先生より御寄進された御神体の像を受領し、翌十月八日夜西二稲荷神社社務所にお迎し、十月十七日夜御魂遷の祭を執行されたものである。