「冷水」は鎌倉期から見える地名で、冷水郷から南北朝期以降は冷水浦と書かれている。
『紀伊続風土記』によると、「衣奈八幡」を勧請したとあるが、年月は不詳とある。
源平の合戦の折源義経の忠実な家臣であった藤白の鈴木氏が、当地から四国に渡り、屋島に赴いたとか、以後諸文書によっても南北朝期には瀬戸内海交通の要津として発展していたことが知られている。
ために当社は氏神「八幡社」として栄えたが「寛永期に、昔は社五尺、鳥居、巫女、庁舎、舞台、祈屋あり、又神田三段三畝ありしを、豊臣家検地の時没収せらるとあり(『紀伊続風土記』)」と記す。
江戸時代の寛保元年から2年にかけて名高浦の専念寺第十四代住職全長が著した『名高浦四囲廻見』によると「此浦を清水浦名付る事は、考るに、昔此所へ岩(石)清水八幡宮行降ありし浦なる故に、初は岩清水浦とも云ひたるなるへし、しかれども人皆ことには略を好む故、後には岩の字を略してただ清水浦と云ひ来りしなるへし、八幡宮の以降と云は、南紀雑集略那賀郡野上八幡宮の下に、野上庄八幡宮の別宮は国々所々へ八幡の霊行降の跡也とあり云々」
里民の申伝にも、「当浦の八幡宮の鎮座は江南(衣奈・日高郡の内)の次、清水浦、清水の次は野上なりと云事あり、神霊行降の次第を申伝えたるなるへし、其上清水の八幡には、末社に竹内宿禰束帯の御願の在す社ありと云、(中略)父の武雄心天子に代かわりて紀伊国神祇を祭祀すとあらば、其子の武内宿禰なり、神祇を祭祀せられたるならん、今此の清水の八幡宮も武内宿禰の祭祀なる故に、束帯の装束にて末社に祭りしなるへしとおもはる、しかれは、由緒ある八幡宮にて在すなり、浦の名とする故ともなるへきかなとおもはる」とある。