(造営記念碑より)
昔よりこの地に天神社と神明社の二社あり 氏子崇敬者は両社大神ととなえて祭典を行って来たが その由来については天神社の社殿は寛保元年(一七四一)に造立されたと伝えられる 尚天神社の鐘楼には 弘化四年(一八四七)銘の梵鐘があつたが太平洋戦争時の供出により失われ右両社共永年の風雪により損傷も甚だしかつた。
昭和四十年頃より此の地にも都市化の浪が急速に浸透し来り 地権者は等しく将来に備えて自らの手によって 区画整理による街づくりに着目し 昭和四十六年八月より 十五年余の歳月と総工費四十五億余円の巨費を投じて 総面積四十五ヘクタールの区画整理事業を完成させた この事業の一環として両社を一緒にし天神社として 現在地にその造営を図る