天正2年(1574年)、岐阜城主・織田信長によって下竹屋町(現・岐阜市下竹屋町)に創建された。開山には尾張正眼寺(現・小牧市)の9世・超鶚祖宗大和尚の法縁である元澤祖栄大和尚を招いた。
5世・霊仙喜祐大和尚のときに現在地へ移転された。古老によると、現在の境内入口である東西に走る道路の下には用水が流れており、かつての岐阜市街地と外部との境界線であったらしい。道路工事などに伴う発掘でも、用水の北側(金華山、長良川方面)は陶器の破片などが多く見受けられるが、南側(市役所、柳ヶ瀬方面)は砂利のみのところが多かったのだという。
昭和20年7月、岐阜空襲により本尊三体および大般若教六百巻、涅般像が疎開により残ったのみで他は総じて灰燼に帰した。