諏訪神社の由緒は不明。三増(みませ)地区の獅子舞は、江戸時代中期に始まったといわれる愛川町三増地区の獅子舞。干ばつと疫病除けの行事として、例年7月、諏訪神社摂社の八坂社祭礼の際に演舞が行われています。かつてこの獅子舞は、門外不出とされ、神社を中心に一町より外へ出さぬ掟もあり、舞い手も村内の長男に限られていました。永禄12年(1569)10月、甲斐の武田信玄は総勢2万の兵を率いて北条氏康の小田原城を包囲攻撃しますが、攻略することはできず、帰路を三増峠にとりました。これを察知した氏康は幕下の将兵2万を三増に進出させます。10月6日、三増山地一帯の武田陣に対し北条軍は随所に出撃し激戦となりました。緒戦は北条軍有利に展開しますが、武田方遊軍が背後から挟撃すると、北条軍は総くずれとなり敗走しました。『甲陽軍鑑』には、戦死者は北条方3,269人、武田方900人と記されています。関係史跡として今日に伝わるものに、信玄の旗立て松・浅利信種墓所・首塚・胴塚づかなどがあります。