享保13年(1728年)、月江理清禅尼の発願によって下竹屋町土居原(現・岐阜市松屋町か)にあった庚申堂を現在地に移した。
享保19年(1734年)、美江寺町にあった天台宗観昌院塔頭・瑞応院の堂宇を譲り受け、官許を得て寺号を教圓山地蔵寺と定めた。
大法正眼国師盤珪大和尚を開山始祖に、真性浄明禅師逸山大和尚を創建興祖に勧請して臨済宗妙心寺派の寺院となった。
昭和34年、伊勢湾台風によって堂宇が著しく被害を受けた。そのため先代住職によって伽藍・塀・山門が改装修繕された。また、寺院由来を踏まえて庭の片隅の寂れた社に納められていた秘仏・青面金剛像を本堂南西の一角に作檀安置し、庚申日に法要供養を行うように整備された。さらに、外庭に地蔵石小社と本尊横に小地蔵立像があるのみであったため、寺号に相応しい堂宇をと地蔵堂建築を腐心され、千躰地蔵堂を完成された。
現住職の高橋文洪氏は本来60年に一度(庚申年の初庚申)に開帳法要が行われていたことを、参詣者の要望をうけて庚申に拘らず12年に一度(甲申・丙申・戊申・壬申)小規模の開帳法要を行うように変更した。現在は庚申待として昼前に法要を厳修し、御斎を頂き解散するという略式にて行われている。