えんしょうじ
岐阜県本巣市金原350
建仁元年(1201年)、大野・本巣両郡の領主で数屋村に住んでいた河内橘氏の一族・関谷六郎正善によって創建された(そのため現在住職は橘氏を称している)。 正善は上洛して法然上人に帰依し、九条家旧殿・..
建仁元年(1201年)、大野・本巣両郡の領主で数屋村に住んでいた河内橘氏の一族・関谷六郎正善によって創建された(そのため現在住職は橘氏を称している)。 正善は上洛して法然上人に帰依し、九条家旧殿・大谷庵にて下賜された九条家伝来の阿弥陀如来像(恵心僧都作と伝わる)に念仏三昧の日々を送った。のちに親鸞聖人に教えを請えと法然に言われ、美濃に帰国後数屋村に大谷山圓勝寺を建立した。 3世・善徳は本願寺3世・覚如上人より阿弥陀如来像を賜った。 9世・善勝は石山戦争に参加したが、参戦しているときに信長方によって圓勝寺は焼かれた。本尊や寺宝は善勝の妻の機転で親戚関係にあたる高野山松の坊(現・本覚院)の愛誉上人に預けられていたため、戦禍を逃れた。その後高野山も信長の火攻めに遭ったが、阿弥陀如来像は難を逃れることができた。二度も火難を逃れたことから、その後阿弥陀如来は「火中輪光の阿弥陀如来像」と呼ばれるようになった。 天正10年(1582年)6月13日、石山戦争の前線から一時帰国していた善勝は、信長の家臣・根尾右京乃介(右京亮)に追われて三ノ段(現・本巣市根尾長嶺)で討たれた。右京は恩賞にあずかろうと首を持ち日当村(現・本巣市日当)まで来たが、6月2日に信長が死んだことを知らされて首を根尾川に投げ捨てた。現在、その場所は「坊主落とし」という史跡になっている。 石山戦争での善勝らの功績に対し、顕如上人から「蓮如上人直筆の御真影」「顕如上人の袈裟」「顕如上人の念珠」を賜った。 天正11年(1583年)、見延一色に移された。 元和3年(1617年)、11世・善超によって金原の現在地に移される。 元禄8年8月2日、14世・善空が高野山の寂性阿闍梨から、預けられていた阿弥陀如来像を返還された。 元治元年(1864年)12月2日、水戸浪士の武田耕雲斎率いる天狗党300人が宿泊し、21世・慈信がもてなした。この日には、幕府方の薩摩藩士・中村半次郎(桐野利秋)が圓勝寺に宿泊していた武田耕雲斎や藤田小四郎を訪れて面会していたとも伝わる。2日後には天狗党を追討する幕府追討軍御目付の江原桂介率いる幕軍300名が宿泊した。 文化12年(1815年)、本堂が火災で焼失した。22世・慈眼によって焼失した本堂は建立されるが、明治24年(1891年)の濃尾地震にて倒壊した。そのため大正5年(1916年)に再び建立された。その落慶法要から「圓勝寺雅楽会(金原雅楽会)」が誕生した。 24世・感月は終戦後に荒廃した本堂、庫裡、山門を大修復した。 25世・正信も書院の改築や鐘楼の修復、庫裡の修復を行った。本堂も大修復に着手したが、完成間近で没した。正信は本願寺派総長、龍谷大学理事長、岐阜県仏教界会長を歴任した人物であった。 現住職(26世・行信)によって本堂の大修復が完了した。
金原(きんばら)にある浄土真宗本願寺派の寺院。同派岐阜教区中川北組に所属している。
大谷山
浄土真宗
浄土真宗本願寺派
1201年(建仁元年)
阿弥陀如来
関谷正善
大谷山圓勝寺
阿弥陀如来像(伝恵心作) 火中輪光の阿弥陀如来画像(南北朝時代作) 光明本尊金泥九文尊号 和讃二首(覚如上人筆) 蓮如上人画像(蓮如上人筆) 和讃一首(蓮如上人筆) 名号(蓮如上人筆) 消息(蓮如上人筆) 親鸞聖人等身御影 太子七高僧(准如上人裏書) 釋迦如来図(徳力善雪筆) 寒山拾得繪双幅(雪舟筆) 歎異抄古写本 円勝寺の樫(本巣市指定天然記念物)
有り(山門前)