いわみはちまんぐ
島根県大田市仁摩町大国374
欽明天皇の御宇(在位539~571?)石見山の絶頂に毎夜神光を見る。村民等何の故たるを知らず、互いに甚だ懍くす。時に神告あり。 之に依って石見山に登り、光輝を放つところの珠一個、得て箱石に納め以て..
欽明天皇の御宇(在位539~571?)石見山の絶頂に毎夜神光を見る。村民等何の故たるを知らず、互いに甚だ懍くす。時に神告あり。 之に依って石見山に登り、光輝を放つところの珠一個、得て箱石に納め以て之を祀る。時に同帝の11月14日なり。 後花園天皇の御宇、宝徳(1449~1451)の頃、西大定、藤原重春神告あり。之に依って箱石より石見山麓に宮所を移す、即ち現今の社地なり。箱石は今尚存在し、石見宮所を去ること凡そ5町の所にあり。 そもそも当社は、中古武人の信仰厚く、毛利元就公、同輝元公の如きは神徳を感ずるの余り秘蔵の横笛あるいは鎧等を献納せられ、殊に吉川元春公の如きは鎧を献納し、正親町天皇の天正12年(1584)8月、社殿をも再建せられたり。 次に、当社を石見八幡宮と申す所以は、太古八束水臣津野神、国見の時、此の里に来りまして岩に駒を繋ぎ津々、龍厳山を見て、岩見る国と宣り給ふ。故に山名も石見と云う。其の駒を繋ぎ給菱岩を今尚、駒岩と云ひて、石見山麓の宮所より凡そ一町余りの所にあり。 又此の龍厳山と云ふは、石見山の裏面に当り、次に龍厳山も石見山も今の宮地も、当村の旧家大地主、清水周五郎氏の土地なりしが、文化14年(1817)丑12月、之なる社地を寄付せられしに依り、依って同15年3月、本殿を再建せり。明治8年(1875)7月23日、郷社に列せられる。
品陀和気命、帯仲津日子命、息長帯媛命、大垂乳女神、媛大神
あり