勝浦城は勝浦港東側丘陵地に築かれ、突端である八幡岬から遠見岬神社付近までが城域と考えられています。丘陵伝いに南北約1 . 5km、東西約0 . 6kmに及ぶ広大な城郭です。ただし、真ん中に位置する鳴海神社北側に「新地」という名が残ることから、最初から広い城域をとっていたわけではなく改修拡大していく中で城域が北側に広がっていったと推察されています。勝浦正木氏の本城である勝浦城は、正木氏以前に上総武田氏の城だったとも伝わりますが、詳細は不明です。正木氏に関しては、天文11年(1542年)12月に正木時忠が勝浦の年貢を定める文書を出しているので、この年のうちに勝浦城に入ったと考えられています。勝浦正木氏は里見氏の配下でしたが、永禄7 年(1564年)の国府台合戦で里見氏が小田原北条氏に負けたことにより、勝浦正木氏は北条氏と結び、勝浦城は反里見氏の城となりました。しかし、最終的には里見氏に帰属し、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原攻めを迎え、その後は里見氏とともに安房に移りました。