こうがんじ
神奈川県川崎市中原区宮内 4-3-12
覺王山髙願寺は、親鸞聖人宗祖の浄土真宗本願寺派の寺で、二ヶ領用水の開削の頃にあたる 1603~1609(慶長8~14)年の直前の時期に開かれた。 寺伝によれば、新田義貞の子義興、義宗らが上野で兵を..
覺王山髙願寺は、親鸞聖人宗祖の浄土真宗本願寺派の寺で、二ヶ領用水の開削の頃にあたる 1603~1609(慶長8~14)年の直前の時期に開かれた。 寺伝によれば、新田義貞の子義興、義宗らが上野で兵を挙げ鎌倉へと進み後、足利尊氏との鎌倉争奪戦の戦乱の影響を市内でも被り、その家臣の霊を弔うための草庵として始まる。その後、庵を改めて真言宗の一寺となった。 今からおよそ370年前の徳川三代将軍家光の時代、1638(寛永15)年に西本願寺第十三代良如上人に随喜した順徹によって、浄土真宗本願寺派に改宗された。神地(ごうじ)の光円寺も帰依寺であった。 髙願寺は、江戸時代の重要な街道であった中原街道と府中街道との交差する位置にあり、府中街道と二ヶ領用水に囲まれたその寺領は、阿弥陀堂領として江戸幕府より賜受されたものであった。帯刀を許されていた家来もいたところから俗称「侍寺」とも呼ばれていた。また、髙願寺は、中原街道沿いの西明寺、泉択寺とあわせて、江戸幕府の小杉御殿の守り固めの役割も果たしていた。 また、髙願寺は、宮内の学校教育の発祥の場として、寺小屋教育も行なわれていた。時には用水をめぐる利水、地境の争いの調停役に住職があたることもあったという。 当初の本堂・庫裡は、1753(宝暦3)年に灰燼に帰しており、翌1754(宝暦4)年、當山第七代南順は再建に取りかかり、同年3月26日には上棟した記録が前本堂の棟札から知ることができる。前本堂は、宮内村の清水喜右衛門棟梁によるもので、堂内の内外陣を分かつ大欄間の一枚彫りの雲水竜は、長谷川久蔵作。雲鳳凰は第八代円海の作であった。 しかし、1982(昭和57)年2月26日、再び火災により本堂は焼失し、現在の堂宇は1987(昭和62)年に再建されたものである。 また、2005(平成17)年、寺号を「髙元寺」から江戸時代中期ごろまで名のっていた「髙願寺」に改称する。 学校教育の発祥の寺 川崎市で最も古い寺子屋が髙願寺に開設 江戸時代中期以前から川崎市で最も古い寺子屋が当寺に開設され、広い地域から通う民衆の子弟等の教育にあたっていた。境内にある1760(宝麿10)年に没した手習い師匠の寿毫堂の墓には、筆弟201人と刻んである。 1873(明治6)年、寺子屋は「宮内学舎」と名づけられた。当時の記録によれば1ヶ月4銭6厘の授業料で生徒数 男15人 女38人 計53人の生徒が学んでいる。のちに、「宮内学校」と改称され、1901(明治34)年「小杉学校」「丸子学校」とが合併されて「尋常中原小学校」が創設された。 公式HPより引用。
髙願寺は、江戸時代の重要な街道であった中原街道と府中街道との交差する位置にあり、中原街道沿いの西明寺、泉択寺とあわせて、江戸幕府の小杉御殿の守り固めの役割も果たしていた。また、宮内の学校教育の発祥の場として、川崎市最古の寺小屋教育も行...
覺王山(かくおうざん)
浄土真宗
本願寺派
不詳
阿弥陀如来像
1月1日 元旦会 3月彼岸中の日曜日 彼岸会 4月29日 永代経法要 7月 孟蘭盆会 8月 孟蘭盆会 9月彼岸中の日曜日 彼岸会 11月2日・3日 報恩講法要