たこうてんまんしゃ
栃木県河内郡上三川町天神町10-14
下野の國、多功駅に鎮座する威徳天満宮の起源をたずねると、一條天皇(986年〜1010年)の御在位の時に山城國葛野郡北野辺に平等庵があり、祖光という僧が住んでいた。 彼は真の法師ではなく仏学の為に仮..
下野の國、多功駅に鎮座する威徳天満宮の起源をたずねると、一條天皇(986年〜1010年)の御在位の時に山城國葛野郡北野辺に平等庵があり、祖光という僧が住んでいた。 彼は真の法師ではなく仏学の為に仮染の世話人となっていた。常に詩歌を嗜んでいたが、うまくならない事を嘆いて北野天満宮に参拝し「私の願い事を聴いていただけるなら一國に一社を建てお礼をしたい」と誓い、お祈りしたところ良き歌詠人となった。 寛弘四年(1007年)諸國を廻りつつ下野國に来たのは、貞観の間(867年)道真公が下野権祿を授けられたその神縁であろうか、御社の境内地をこの所と選び定め官許を得て、北野天満宮より御神霊を請い、神殿・回廊・鼓楼等を斎き奉り一國一社天神の碑を建て、また筑紫の太宰府天満宮より御祭神が愛で給う八英の梅の実をいただいてこの地に蒔いた。 天正十三年(1585年)北条氏直が宇都宮を攻めた時多功石見守藤原宗朝も攻め滅ぼされ、御社も兵火に遭って焼失した。 慶長九年(1604年)徳川家康は伊那忠次をして高三石の黒印を献らせ、寛永二年(1625年)御社を再興、慶安二年(1649年)徳川家光、日光宮詣の途次旧跡の退廃を嘆いて木川田の地を寄せ朱印を改めて社領とした。 明治十年(1877年)官府により村社と定まる。其間、世に盛衰は有りつれど、二十五年毎には必ず大御祭仕奉れる例にて文学の道は更なり、其他霊験の原著なる今、問う可くも有らず、抑、斯れの御社は贈正一位、太政大臣菅原道真公の御霊を齋ひ奉れる御社にして嗟嘆、阿波礼やこの大神の朝廷の大御為にとて、御心を筑紫の道の前なる太宰府に謫はれ給いて御齢五十九歳にて神上し坐しぬ。
慶長九年(1604)徳川家康は高三石の黒印を献らせ、寛永二年(1625)御社を再興、慶安二年(1649年)徳川家光、日光宮詣の途次旧跡の退廃を嘆いて朱印を改めて社領とした。 明治十年(1877)村社と定まる。
菅原道真公
旧村社
寛弘四年(1007年)
2月25日 太々神楽
多功廃寺址と礎石
JR宇都宮線石橋駅から徒歩約8分
有り(境内に数台)