創祀年代は不詳 社伝によると大同元年の創詳 養老五年(721)泰澄草創の別当・谷田寺が潘に提出した願書には安永四乙末三月壹干年祭、文政六癸末九月壹干五十年祭とあり安永四年(1775)の約千年前 宝亀年間の創祀とも 式内社・苅田比古神社に比定されている古社谷田寺記録には「知見七村氏神」とあり知見之宮と記されている 伝承によると秋日、刈り取った稲の上に神霊が降臨したということで苅田彦の名が付けられた穀霊神であるという もとは現在地の東北の山麓にあったが洪水のため嘉永六年、現在地に再建された 明治四十四年五月に小倉字奥の谷から移転された 文明年間創祀の無格社・神明神社 神馬像には菊の紋が付けられているが式内社調査報告には神紋は五三桐だと記されている