当社は狛江市岩戸の総鎮守にして、往古は的矢庄石井郷にて、後に岩戸となまり、此の地に在り。
社伝に曰く、岩戸の地士に秋元仁左衛門と言う怪力無双の勇士あり、人呼んで鬼五郎左衛門と称し恐れられていた。
今を隔てる四百有余年前、即ち永禄元年(一五五八)四月、相州小田原の北條陸奥守の召しに応じた足利左馬頭義氏という腕自慢の勇士があった。一方、当岩戸の領主にして世田谷城主吉良左兵衛佐頼康も又、義氏同様召しに応じ、諸大名と共に鎌倉鶴岡八幡宮に参詣した。遇々、腕自慢の義氏が、世田谷城主吉良頼康と力較べをする事となり、頼康は家業の中より岩戸の住人仁左衛門をして、其の相手となさしめる事になった。勝負は相撲により決し、懸賞として勝者には鶴岡八幡宮の御神體体を懸け、諸将きら星の如く居並ぶ社前において勝敗を争ったが、仁左衛門はこの大相撲に見事腕自慢の義氏を倒し、遂に勝利を得て、その賞として鶴岡八幡宮の御神体を当所に持ち帰り、八幡神社を勧請したと伝えられ、以来四百有余年の歳月を重ね、今日に至るまで、その名残を近郷にとどめて、今でも世田谷八幡宮の祭礼には此の相撲が行われている。
御神体は神秘の木の坐像、束帶、身丈二四・七五米厘(cm)にして、参詣者の無病息災と子孫繁栄に霊験ありて、近郷近在の老若男女競うて参詣する者多し。
社殿は明治三年改築し、更に昭和三十七年八月、木造一部鉄筋コンクリート造り、向拝付拝殿、銅板葺、総建坪に十五坪余、近代的にして崇厳を極めた神殿である。附近には千古を伝う湧水あり。又、社前の池中には末社厳島神社あり、市杵嶋姫命を祀る。総社地三百九十坪、氏子は二千有余。昭和四十九年九月、時代の推移に伴い境内に神楽殿を建設し、以って氏子の人々を始め、一般の参集に便ならしめ、参詣又容易にせんとす。社殿改築時には大鳥居を、今又手水舎を寄進する有志あり、神殿の崇厳輝き、神の鉾榧の大木天を摩し、氏子の繁栄と、敬神の念を極めている。(境内掲示より)